房州の名工「波の伊八」

The great wave

みなさんは「波の伊八」と呼ばれる宮彫師をご存じでしょうか?

初代「波の伊八」こと武志伊八郎信由(たけしいはちろうのぶよし)は、1752年(宝暦2年)、現在の千葉県鴨川市打墨で代々名主を務めた家に生まれました。子供の頃から手先が器用で、彫刻家に弟子入りして腕を磨き彫物大工を志しますが親にはその世界に入ることを許されず、自ら結果を残すことでキャリアを切り開いた人です。

伊八は房総半島を中心に神社の向拝、寺院の欄間等に多くの彫物を残しました。
躍動感に溢れる「波」のモチーフの作品を多く彫ったことから「波の伊八」という異名を持ちます。その腕前は、関東以外の職人に「関東へ行ったら波を彫るな」とまで言わしめたほどだと言われています。その意味するところは、伊八の「波」と比べられたら必ず出来栄えは劣る、だから恥をかくことになるからやめておけと言うことです。
伊八の彫刻は房総を中心に、東京・神奈川など南関東に現在も50点ほど残っています。

他方、同じ時代に活躍していた葛飾北斎は「波」の表現を数十年にわたり研究・模索していたことが、木更津、富津、銚子を旅した記録からわかっています。

葛飾北斎と初代伊八の直接の交流を示す記録は残っていませんが、当時から「波」の達人として知られる伊八のことを北斎が知らないはずがないと考えるのが妥当で、伊八が日蓮宗妙法寺(東京都杉並区)に残した波の彫刻を見て、北斎が伊八に関心を抱いていたとされます。

ある日、伊八は故郷に近い行元寺(千葉県いすみ市)の住職から般若心経の「色即是空」「空即是色」の「空」を波で表すよう依頼されます。伊八は「一瞬一瞬を大事に生きよ」という教えを「波に宝珠」で立ち上がっては崩れていく波により見事に表現しました。

その22年後、北斎が72歳のころ、海外では「グレートウェーブ」として知られるようになる富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」を完成させました。
上述の行元寺には北斎の兄弟子が描いた絵が残っており、同市にある飯縄寺には北斎の師匠である人物の作品があります。北斎が自分の師匠や兄弟子の絵を見るために各所を訪れた時、伊八の作品にも触れた可能性が十分にあるのではと考えます。

行元寺 波の伊八欄間彫刻 波に宝珠(左)と葛飾北斎 神奈川沖浪裏(右)
引用元:いすみ市観光ポータルサイト – 東頭山 行元寺(ぎょうがんじ)

この2つを比べると、やはり北斎が伊八の波に強く影響を受けたのが真実だと思わずにはいられません。そして、北斎が伊八の波に出会い自身が納得のいく波を描けるようになったことに対する伊八への感謝としてのオマージュであったかのようにも見えてきます。

伊八が彫物大工としてのキャリアをスタートした妙法寺が私の生まれた場所に近いこと、伊八の生まれ故郷がガレージがある千葉であること、モチーフに私の干支である龍が多いことなどが重なり、閃きとともに強い縁を感じる体験となりました。

みなさんは伊八と北斎の間にどんなストーリーがあったと考えますか?
機会があれば二人の足跡を辿る旅に出かけてみてはいかがでしょうか。きっと新しい発見があるはずです!

最後に、飯縄寺にある伊八の「波と飛龍」の写真も載せておきます。※外からであれば写真を撮って良いとのことでした。

飯縄寺「波と飛龍」
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この記事を書いた人

ジープ・軍用車専門レストアショップに勤めたあとIT業界へ転職。三菱ジープJ3R(不動)、J54A(不動)を所有。ジープ・JKラングラー・アンリミテッド・ルビコンでJeepライフ復帰。 東京在住。千葉拠点でのリモートワークやガレージライフについて情報発信しています。

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